塩釉の湯たんぽ

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東洋のやきものの内には荒物の粗陶器として甕器の系統がありますが、一方西洋の粗陶器としては一連の塩釉のやきものがあります。
塩釉というのは窯詰め前に施釉する普通の釉薬とは違ってむしろ窯を焚き上げるための薪の灰がうつわの表面に溶け付いた自然降灰釉のように高温になった窯の中に岩塩などの塩を投げ込んで揮発した塩の成分が土と反応したものです。
塩釉といえばドイツの髭徳利がよく知られていますが、塩釉は高火度で頑丈であることと比較的手間のいらない工程のためにドイツを発祥としてその後はヨーロッパ各国やアメリカでも壺や甕やジャグなどの生活雑器が数多く作られたようです。
この湯たんぽはオランダで見つけられたとのことですが西洋のやきもの史に詳しくない自分にはいつごろのどこのものかはわかりません。
須恵器の提瓶にも似たこの不思議なかたちとマグカップのような持ち手のつけ方には塩釉独特のこの肌合いと共にいかにも西洋の陶器らしい特色があります。
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# by hanakari | 2011-04-05 07:15 | つちのもの

多々良 壺

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この小さな広口壺はおそらく佐賀県の多々良のものではないかと思います。
このあたりの山々には桃山時代から江戸のかけての無数の窯跡が残されておりそれらは今では総称して唐津焼としてよく知られていますが中でもこの多々良の窯はいかにも数寄者好みの唐津とは少し趣の違った窯としてはっきりとした特色があります。
一般的な唐津の窯が主に小物中心で食器や茶器などを作っていたのに対してこの多々良の窯は主として壺、甕、ゆたんぽなどの粗陶器を中心とした仕事なのです。
かたちも叩き作りの轆轤仕上げで作り、釉薬も藁灰や土灰などの色彩感や艶のある釉薬ではなくもっぱら不透明な泥釉を用います。
茶色や黒に焼けるこのくすんだ泥釉の上に時折はこのように泥に灰を混ぜたと思われる黄色っぽい釉薬を流し掛けるくらいでなんとも素朴な仕事なのです。
江戸期になって伊万里の磁器の小物類が普及するにつれて唐津の窯に変化があり、白泥や銅緑釉を使ってさらに華やかな甕や大鉢などの荒物が作られるようになっても多々良ではそのようなものは作られなかったように思われます。
同じ地域で同じく朝鮮系の人達によって始まったはずの両者にどうしてこのような違いがあるのかといえばほとんどが朝鮮の沙器系の技術者による窯であるのに対して多々良は甕器系の技術者による窯だからです。
多々良の窯が他の唐津とは明らかに陶脈を別にする、ほとんど朝鮮の甕器そのままの作風を昭和前期までは伝えていたということは、おそらくは秀吉による文禄慶長の乱の頃以来ほぼ変わらないままに地元の需要に応えた粗陶器の仕事を続けてきたということだと思うのです。
茶器を求めて朝鮮系の陶工を招いたのだとすればそれは沙器系の陶工であらねばならないはずで甕器系の陶技を身につけた彼らはどのように遇されたのでしょうか。
甕器系の窯は日本では非常に少なくてここの他には薩摩の諸窯や上野(かみの)の窯が知られているくらいではないでしょうか。
あるいは丹波の窯にも朝鮮系の技術がやきもの自体には割に目立たないかたちで入っているように思いますが、これもやはり甕器系技術に繋がるもののように思います。(東海系瓷器をルーツにした丹波の陶脈は実際には非常に複雑だと思います)
多々良の窯の仕事は数十年前まで昔そのままに残っていたため今でもたくさん当時の品物が残されていますが作陶家からも愛陶家からもたいして尊敬も評価もなされていないのが実情ですが、自分などからすればとても作ることが出来ないような立派な大甕をはじめそのことごとくは極めて骨格の確かな仕事ぶりでもっともっと評価されて良いはずのものだと思われてなりません。
現代の華奢な陶器の好みからしたら多々良はいかにも地味で取っ付きにくいものには違いないとも思いますが、それだけに現代の作に一番欠けているものがはっきりと示されているのも多々良や苗代川などの甕器系の窯ではないかと思うのです。
自分の仕事もやはり沙器系の技術で蹴轆轤で水挽きして灰を用いた釉薬を掛けるものが多いのですが、もっと甕器の系譜を学びたいと思っています。
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# by hanakari | 2011-04-02 23:53 | つちのもの

馬の目皿

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たくさんの目玉が見つめているようなこの皿は明治頃から作られはじめたのではないかと思われる瀬戸の馬の目皿と呼ばれるものです。
かなり厚手に轆轤をひいたがっちりとした作りはほぼ同時代にやはり瀬戸で作られた無地の石皿とも似ており、またおそらくは用途も需要も共通のものではなかったかと思うのですが、はたしてどういうところからこの印象的なデザインが生まれてきて定着したのかはわかりません。
今に残る品も相当多数あることからすれば長年にわたってかなりの数の馬の目皿が当時焼かれていたことは間違いないと思います。

この馬の目皿については大正末に現地で発見したスリップウェアと共に英国から戻ってきた濱田庄司とそれに大いに感動した河井寛次郎が京都市内の魚屋で使われていた馬の目皿を見付けて大変惹かれたといいます。
その時に二人はスリップウェアの日本版のような皿であると思ったそうですが、実際に数年の後にスリップウェアの技法をたくさん手がけていた河井寛次郎が馬の目紋様のスリップウェアも作っています。
そのころまでは普通に暮しの中で馬の目皿は用いられていたのです。

写真の皿はぼく自身がまだ自分で陶器を作ってみようともしていないがやきものに興味を持ち始めた頃に東寺の朝市で見つけて手に入れたものです。
大学に行く前に早朝から一周りして、まだまだやきもののこともこういう古いもののことについても知識もない頃に玉石混交の様々なものを手に取って見れるよい機会でした。
すでに二十数年も昔のことになってしまいましたが当時はたくさんの露天がひしめきあう市を一周りすれば今思ってもいろんな貴重なものがありましたし、特別珍しい訳でもない馬の目皿などは幾つか見つかったのです。
そのなかでも釉薬の調子や紋様の穏やかな描きぶりが気に入ってこれを選んだことや、当時の自分としては不慣れな、そして思い切ったこの買物のためにいっしょに行った友人がずいぶん根気よく値段を交渉してくれたことを思い出します。
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# by hanakari | 2011-01-28 02:58 | つちのもの

赤絵のくらわんか 小皿

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くらわんかというのは肥前磁器の一様式ですが有田ではなく波佐見を中心に作られたと言われる粗製磁器のことです。
ところが実際には窯跡を歩けば波佐見に限らず武雄周辺の窯などでもたくさんのかけらが落ちていたりするので産地は案外広かったのではないかと思います。
いっぽう赤絵というのは一旦焼き上げた白磁や染付にさらに低火度で上絵を焼き付けるわけですが、必ずしも磁器そのものを焼いた場所で絵付けをして焼いたとは限らず別の上絵付け工房に運んでの作業の可能性もあると思います。
上絵付けは比較的規模の小さな設備で作れるしその作業の性質上ロスもそれほど多くないので必然的に赤絵の窯跡と陶片が発見される場合は多くないのではないかと思います。
そんなわけで赤絵のくらわんかの産地ははっきりと分からないのです。(考古学的な発掘調査も進んでいるのでもしかしたら自分が知らないだけで産地のうちのいくつかはすでに判明しているかもしれません)
染付のくらわんかと呼ばれるものは割に特色のはっきりしたわかりやすい一定の様式のものだと思うのですが赤絵のくらわんかについてはそう一筋縄ではゆきません。
だいたい赤絵のくらわんかというもの自体がそれほど多いものでもなく、またいくつかの系統のものをかなり感覚的に分類しているに過ぎないので肥前各地の赤絵磁器のうちのくらわんか的(これもずいぶん感覚的ですが)な特徴の絵付けのものの総称として捉えるのが適切ではないかと思うのです。
実際には染付のくらわんかそのものに幾らかの赤絵を描き加えたまったく染付のものと同系統のくらわんかもあるにはありますが、むしろ赤絵のくらわんかのその多くは染付のくらわんかとは別系統のものであると思うのです。
轆轤のくせも釉薬の焼けあがりも違うということはその産地や時代が違うと考えるほうが自然だと思います。

写真のものも時代はおそらく17世紀後半から18世紀頃かと思いますが裏側は伊万里では初期以外にはほとんど見られない鉄釉が掛けられているなどやはり普通のくらわんかや伊万里とはちょっと違うもののように思えます。
無釉の重ね焼きの跡を緑で塗りこめて蓮弁文を置き、周囲は草花紋でまとめたこの可憐な小皿も今のところ自分の暮らしにはどうも馴染まずにただ眺めるだけなのはもったいないことですが、うちにあるものの中では珍しく華やかなものなのでこのブログの新年の一つ目に紹介する気になりました。
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# by hanakari | 2011-01-14 03:42 | つちのもの

kneik SOAP

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先日こんな思いがけない素敵なプレゼントをいただきました。
包み紙を解いてみると竹炭と米糠と米油でこしらえたスリップウェアです。
スリップウェア好きのぼくのためにこんなふうに工夫して作って下さったのです。
英国の古いスリップウェアに乗せて。

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# by hanakari | 2010-11-03 23:35 | 日常