<   2009年 07月 ( 7 )   > この月の画像一覧

流描き 盒子

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ぼくが英国のスリップウェアのうつくしさにこころを鷲掴みにされたのは1989年の春に兵庫県立近代美術館の「セント・アイヴス」展に出展されていた濱田庄司旧蔵の角鉢を見た時でした。
おそらくこういうスリップウェアが日本に初めて入って来たのは濱田庄司が1920年から3年半にわたるリーチとの英国での作陶生活を切り上げて帰国した1924年春のことで、その帰国に際しての荷物の中に何枚かのスリップウェアを入れたとのことです。
濱田はその後も何度も渡英していますからその角鉢がその時のうちのひとつかどうかはわかりませんが、ともかくこの角鉢も生涯身近に置いて今なおその晩年に設立した益子参考館に所蔵されているものでした。

ぼくのやきものの師匠の師匠のそのまた師匠はこの時に濱田が持ち帰ったスリップウェアにたいそう驚きそして感激してこれを大いに研究し、技法を模索しながら昭和の初期にたくさんのスリップウェアの作品を作りました。
1930年に作られたこの緑釉の盒子もやはりそのなかのひとつです。

これはなにも根拠のない空想なのですがこのときの最初のスリップウェアのうちのひとつにぼくを一瞬で鷲掴みにしたあの角鉢もあったのではないか、60何年か前に同じものを見ていたのではないかというような気がするのです。
同じものを見て同じように夢中になった、それがぼくの空想の中の『六十年前の今』の物語です。
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by hanakari | 2009-07-25 01:25 | つちのもの

中世の針

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ロンドンのテムズ川では引き潮になれば川底が現れ、砂に埋もれた古い遺物を探すことを楽しむ人たちが集まってくるのだそうです。
そこには陶器やガラスやコインなどの金属やいろいろなものがあるのでしょう。

これはテムズに限ったことではありませんが、暮らしの遺物はいったんその役目を終えたときには海に川に、あるいは穴を掘って地中へと捨てられました。
京都の街でも道路工事で掘り返している場所からは古い陶器のかけらなどがいくつものぞいていますし、生畑の畑や小さな川の底にも案外古いやきもののかけらが光っているのを時々見つけます。
ひとの暮らしがあった場所には暮らしの伴侶であったやきものが残されている。
そうして埋められたタイムカプセルを掘り起こしたいという願いには何とも本能的なロマンチックな夢があるように思います。

折々にロンドンの街で使われそして捨てられたスリップウェアのかけらを拾い集めては送って下さっているPaulさんYumiさん御夫妻からあるとき厚みはあるが軽い封筒が届きました。
これはかけらであるはずは無いと思ってなんだろうと開けてみて出て来たのがこの針でした。
それはとんでもなくうつくしいもので、いかにも時代を経てはいてもはっきりと残った鍍金と丸い頭の作りが何とも魅力的なものでした。
一目見てまるで百済か飛鳥の古墳から出て来たもののような印象を受けましたが、これは実際に思いがけないくらいに古く1400-1500年頃の衣服を縫うかわりに留めるための針なのだそうです。
そう聞いても巻きスカートの留ピンのようなものしかイメージ出来ないのですがちょっと違うかもしれません。

スリップウェアのかけらは無論うれしいのですがこのような予想もしない未知のうつくしいものに出会った歓びはまた格別です。
西洋服飾史の資料としてはあるいは知られているのかもしれませんが、審美の世界では中世の針はおそらくその対象としてまだほとんど知られていないのではないかという気がしたのです。
まるで知らないひとつの美がここに追加されたような感動を覚えました。
早く紹介したかったのですがなにぶん小さなものですから写真に苦労して時間がかかりました。
結局送っていただいたままの状態で写したのです。
しばしば数本づつまとまって泥の中に埋もれているのだとのことですが、それにしてもこんな小さなものをよく見つけられるものだと驚きます。
いつもながらのお二人への感謝とともに、このような予想だにしなかったうつくしいものの発見を祝福したいと思いここに紹介させていただきます。
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by hanakari | 2009-07-19 00:11 | かねのもの

輪線紋 皿

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これはぼくが沖縄のやきもの好きなのを知ってあるうつわ屋さんが在庫の整理の折に下さったものですからせいぜいこの10数年の間に作られたものだと思います。
白掛した素地の青みを帯びた焼け上がりや呉洲の色の冴え方からすれば還元気味の炎で焼かれたものかと思いますが、こういう焼きのものは古い壺屋の上焼にはほとんど見られないものです。
薪の窯のようですからたぶん読谷辺りのどこかで作られたものではないかと思うのですがおそらくは窯の構造が違うのでしょう。
先日書いた価値を再発見後の自覚の仕事とはこういうもののことで、呉洲と鉄あるいはマンガンによる三彩の装飾も端反りのかたちも蛇の目に抜いた重ね焼きもすべてむかしそのままではないにしても正しく琉球時代からの仕事の伝統を受け継いだものです。
沖縄では幸いこういう立場に立って仕事を続ける方が少なくないようで昔に劣らない立派なものがたくさん作られているようですが、全国的に見ればそんなことはむしろ奇跡的と言わねばならない状況なのです。
こういった沖縄の現代のやきものに需要があるのは琉球的であればこそという現実に目を向けなければなりません。
もしもそれが今の信楽とか益子のようにどこにでもありそうなものばかりになったときには残るのはほんとうに力のある個人だけで、沖縄のやきもの全体は果たして今程に評価されるでしょうか。
地場産業であれば時代時代の需要に応じてその生産体制も製品も移り変わってゆくことは必然なのですが、かといって需要が落ちたからといって過去の資産を簡単に捨て去ってしまうのはいかにももったいないことだと思わない訳にはゆきません。
よりうつくしいものが出来るのならばそれにこしたことは無いのでしょうが実際には過去を越えることは容易ではないのです。
しっかりと学んで守り伝えてゆく中で現代に過去の資産を生かす方法はないものかと思います。
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by hanakari | 2009-07-16 23:32 | つちのもの

点紋三彩 カラカラ

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この注ぎ口の付いた独特な姿のうつわは泡盛のための酒器でカラカラと呼ばれるものです。
色彩も本土のやきものにはあまり見ない華やかなもので、やや黄色っぽい白掛の上に打った呉須の青と銅の緑そして鉄かあるいはマンガンによる褐色の点紋が珊瑚の透明釉に滲んで効果的です。
薩摩の龍門司や苗代川の窯でもカラカラはたくさん作られていて芋焼酎に使われるといいますからどちらかからどちらかへと伝わったものではないかと思います。
たしかに龍門司でたくさん作られたあの三彩のカラカラとこういうものとは密接な関わりがあるということは間違いないように思うのです。
タイから泡盛と共に伝わったというほどに古いものを見かけないのであるいは薩摩からこの名称と共に伝えられたものかもしれません。

現代の沖縄陶にも立派なものはたくさんありますがそれはすでに再発見された後のもので、伝統への自覚と誇りがなければ現代にあのような仕事は続くわけもありません。
これが無いために失われてしまった仕事は各地で少なくないのです。
そういう仕事は尊いものですが、同時にたちの悪い事に琉球風のおみやげ陶器もたくさん作られました。
一方は用いるために作られ、他方は売らんがために作られた誤魔化しものでここはしっかりと区別して見る必要があると思っています。
写真のものはかなり使い込まれた跡がありますが、おそらくは琉球時代ではなく沖縄になってからのものではないかと思います。
そういう伝統文化の再発見以前、琉球以来の伝統がそのまま残っていた明治から昭和前期に掛けての仕事ではないかと思うのです。


これは蛇足かもしれませんが、作り手として注目したいのは本体に白泥を掛けた後に注ぎ口を取り付けていることです。
こんなことは陶器の作り手以外からすれば特に意味のあることでもないでしょうが、地方地方にいろいろな技術の系譜があったということを書き留めておきたいのです。
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by hanakari | 2009-07-14 19:54 | つちのもの

掛分 渡名喜瓶

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角をしっかりと決めた姿がやはり印象的なこのかたちのものも先に挙げたものと同じく渡名喜瓶と呼ばれています。
時代はどちらも同じ頃です。
肩から上は黒釉に、腰は珊瑚を用いた独特の柔らかい透明釉を用いて、真ん中は土肌そのままに輪線を陰刻して黒釉を流し掛けしています。
渡名喜瓶のかたちの原型は佛塔にあるのではないかという気がします。
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by hanakari | 2009-07-12 21:43 | つちのもの

飴釉 渡名喜瓶

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琉球のやきものには他には見ない独特な姿のものも数多くありまた独特の名前が付けられているものも少なくありません。
轆轤の造型としてはやや異形な感じがする程にメリハリのある姿をした渡名喜瓶と呼ばれているものがあります。
轆轤と言うのは基本的には土は外側に膨らむほうに力が働くものですからよほどかたちへの強い希求が無ければこんなかたちが生まれてくる訳はありません。
佛具というのか祭器というのかそういう祈りのかたちであればこそ何らかの強い想いが姿したのでしょう。
渡名喜瓶もまた対瓶の一種ではないかと思うのですが渡名喜島と何か関係があるのではないでしょうか。
18世紀後半から19世紀前半と言われるこの渡名喜瓶はなかなかの優品で若い頃から何度も沖縄に行かれていた濱田庄司さんの旧蔵品です。
濱田さんは沖縄の文化から多くの栄養を受け取り、そして同時に当時の沖縄に対して大きな影響を残されたと思います。
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by hanakari | 2009-07-12 01:36 | つちのもの

泥釉 瓶子

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琉球文化はその地理的条件の必然でしょうか東南アジアからの南方系のものと中国大陸からのもの、そして日本本土からの影響が色濃く感じられます。
やきものを見てもそれぞれの影響がはっきりとしたかたちで残りながらも同時にそれはただそのままではなく成熟した土地独自のうつくしさへと昇華しているところにその魅力があるのではないかと思うのです。

ぼく自身も琉球のやきものには早くからずいぶんこころを惹かれながらもなかなか資料は集まらないでいたのですがこの瓶子はまだ学生の頃に見つけることが出来て歓んで求めました。
琉球独自の姿をしたこういう袴付きの瓶子は一対で霊前に設えるものでしょうか信仰の厚い彼の地ではかなりの数が作られたようで今でも残るものは少なくありませんが、このような泥釉をまとった細身で厳しい姿のものはおそらくかなり時代もさかのぼり、あるいは1682年に近在の窯が壺屋に統合される以前のものではないかという気もします。
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by hanakari | 2009-07-11 09:09 | つちのもの