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朝鮮の須恵器 扁壺

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縄文から弥生時代を通じて土器ばかりの日本のやきものも5世紀頃に朝鮮半島から須恵器の技術が入ってきて窯で焼かれた高温の陶器が始まります。
技術が入ってきたということは朝鮮のひとたちが渡って来たということで最初の頃の須恵器は日本のものも朝鮮のものも見分けがつかない程そっくりなものも少なくありません。
この須恵器の技術を伝えた須恵作りの人たちと、さらに1000年も後に秀吉の壬辰倭乱と丁酉倭乱の2度にわたる侵略戦争の結果唐津などに伝わった施釉陶器の技術を伝えた陶工とが現代まで繋がる日本陶磁の源流であることは間違いありません。
日本の陶器を支え育んできた一番大きな柱はまぎれもなくこの2度にわたる朝鮮系の技術とそこに繋がる方々です。
須恵器の技術体系自体はさらによほど古くから中国にありましたが日本にこれを伝えたのは朝鮮半島の国々です。
伝わったのは須恵器ばかりではあるはずもなく、当時明らかに先進国であった朝鮮からはありとあらゆる文物とそれに携わる技術者が渡ってきたはずで、だからこそ日本人は日本文化の原点である朝鮮文化にこれほどにこころ魅かれるのかもしれません。
その後日本のやきものは江戸時代に長い鎖国の平和な日本で民需が増えた結果として和様のやきものが各地で発展したわけですが、土台となっているのは朝鮮系の人と技術です。

写真の徳利は一般に新羅土器とも言われるものですが、こういうかたちはおそらくは新羅ではなく高麗時代になった後のものではないかと思います。
やきものの質自体は須恵器の焼き方そのままです。
たっぷりとした胴から優美な肩と首のラインにピシッと冴えた口造りで見事に轆轤した後に写真ではわかりにくいのですが両側から叩いて平たくしています。
こういうものを扁壺と呼びますが、彼の地ではずいぶん好まれたようで朝鮮時代になってからも粉青や黒釉でもたくさん作られました。

余談ですが新羅土器と呼ばれているものの中には新羅のものばかりではなく、百済や伽耶のものとさらには高麗のものがごっちゃになっているのではないかと思います。
しかもこれらはいずれも日本で言うところのいわゆる土器ではなく須恵器なのです。
日本語で新羅土器と呼べばこういう二つの意味でその内容に誤解を生じがちのような気がするのでぼく自身はこれら全ての総称としてはむしろ朝鮮の須恵器と呼ぶ方が妥当ではないかという気はします。
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by hanakari | 2008-12-13 00:09 | つちのもの
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